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言葉の力を、信じてるんだ

イノセンス~喪失にどう対処するか~

イノセンス~喪失にどう対処するか~
ライトノベルのキャラクター論を読んで違和感しか感じなかったのでアンチテーゼのイノセンスの話をしようと思った。
このイノセンスという作品、押井守監督作品であり、攻殻機動隊 GHOST IN THE SHELLの続編であります。
攻殻機動隊自体は士郎正宗による漫画を原作にしています。
イノセンスは攻殻機動隊 GHOST IN THE SHELの続編であるわけですが、重要な点として草薙素子が人形遣いと結婚してしまって草薙素子が不在の世界を描くわけなんですね。
冒頭に「孤独に歩め。悪をなさず、求めるところは少なく。林の中の象のように。」と荒巻がトグサに言うシーンがあります。ここがキーで、思うに荒巻は口癖のようにこのセリフを言ってるんでしょうね。

どういう意味かというと、
>この一節には、前部分があります。要約すると「良い伴侶を得られれば、その者と共に歩めばよい。しかし、愚か者を道連れにしてはならない。もし、良い伴侶が得られないのであれば・・・」と、その後に、件の一節が続きます。
良い伴侶とは、バトーにとっての素子です。しかし、バトーと素子は、もう一緒にはいられない仲です。そこで、良い伴侶と共に歩めないから、孤独に歩めば良い、ということです。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1087326210
だそうです。

どういうことかというと、バトーは草薙素子に恋をしていた。だけど草薙素子は人形遣いと結婚していなくなってしまった。イノセンスはバトーから見て「愛する人を失った」世界線を描く物語という風に捉えることが出来ます。

劇中で発生する事件については端折るとして、バトーの心境を追っていくことにしましょう。

いたってハードボイルドです。かつイノセンスでもあります。

どういうことか。最終的にバトーは草薙素子が存在しない世界を受け入れてるんですね。それはどうしたらわかるか?
映画の最後に草薙素子が守護天使として現れるんですが、草薙素子のセリフに「バトー、忘れないで、あなたがネットに接続してる間、私はずっとあなたの傍にいる」。このセリフを体現するように、バトーの危機的な状況に草薙素子はかけつけるわけです。

ハードボイルドといったのは、(私はハードボイルドという言葉を雰囲気で解釈してるので、間違った解釈としても勘弁して)、バトーから見ると草薙素子は見えないんですよね。でも、映画のラストシーンで草薙素子はバトーをずっとフォローしているってことを示唆している。

押井守へのインタビューで、
「押井監督は言っています。「たとえ一緒にいなくても、遠く離れていても、触れ合うことができなくても、それでも互いに存在を感じあえるという関係こそが理想ではないか、というテーマを描いた」と。」
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1087326210
このことを知ったときいたく心を打たれました。
バトーから草薙素子に絡みにいくことは出来ないけど、遠く離れた存在なんだけど、お互いに存在を感じられる。それをよしとしている。それがバトーという性格なんですね。
バトーがイノセンスと書いたのは、バトーってかまってちゃんじゃないよね、ていうことで。すごくここバトーの人間性が現れてると思ったんです。
じゃあどうして草薙素子がバトーをフォローしてるのがわかるのか。

映画の終盤で素子が「孤独に歩め。悪をなさず、求めるところは少なく。林の中の象のように。」というセリフを繰り返す。これは荒巻がよく使うセリフであり、本来であれば素子が知りえない情報なんですね。バトーをフォローしてないと決して出てこない。なのにこのセリフを言った。このことによって素子はバトーをフォローしていることを暗示している。

バトーの心境の変化と言えば、ただお互いの存在を感じられることで満足してしまっている。そこにバトーらしさを強く感じた。
普通ならば構ってほしいとか構ってあげるとか考えるとこなのに、バトーはそういった「遠く離れて傍にいて」といった関係性に満足しているんです。

この映画は人形がどうとか、命がどうとかがテーマと言われているんですが、裏テーマとしてバトーの性格について扱っている。これは監督へのインタビューからも明らかなわけなのです。

私はこの文章の落ちを考えなければなりません。

ライトノベルに関する本を読んでるんですが、キャラクターというものを内面不在の、シチュエーションによってあーなればこうなるよね、っていう風に説明されてることに強く違和感を感じました。だからこの考察を書くことにしました。

「キャラクター」という考え方には例外もあるんだよ、ていうのを示したかった。バトーみたいに内面を持ったキャラクターがいたっていいじゃないか。そして、それが文学の本質なんではないか。

もっとも、イノセンスはライトノベルじゃないと言われるとそれまでなんですけどね。
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たまこラブストーリー~だれがだれを好きになってもいいんだよ~

たまこラブストーリーを見ました。そのあとアニメ編が気になってたまこまーけっとをdアニメストアで見ました。ここではそこで気が付いたことをまとめたいと思います。ネタバレご容赦!!

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たまこまーけっとから
たまこまーけっとは京都のとある商店街の日常を描くアニメです。たまたま向かい合った餅屋の娘と息子。商店街の人たち。豆腐屋さんとか、花屋さん。私も舞台となった商店街に行ったことがあります。そこはアニメで見た時にイメージしてたのと違ってとても狭くて、ここであんなストーリーが繰り広げられてたのか、と思いました。
物語はそんな商店街にデラ・モチマッヅィ(ニワトリみたいな鳥)がやってくるところから始まります。この鳥についてこの論考ではそれほど重要でないので説明を端折ります。
重要なのは餅屋の息子、もち蔵が同じく餅屋の娘、たまこのことが好きで、片思いしているということ。二人は窓越しに糸電話でたまにやりとりするような、仲のいい関係なのですが、たまこはもち蔵の自分に向けられた好意に気が付いていません。一言で言うと鈍感なのです。そしてそれが彼女の売りでもあります。
そんな彼女の売りは至る所で描写されています。たとえば映画「たまこラブストーリー」では尻をモチーフにした餅を企画したり、妹であるあんこに「おねーちゃんってほんとにおねーちゃんだよね」と言わせたり。
あとキーパーソンが常盤みどり。たまこの友人です。親友です。彼女はもち蔵のアタックに対して「たまこ、そういうの困るから」ともち蔵の告白を何度か止めようとします。おせっかいおばさん、ってところでしょうか。女子高生なんですが。
印象に残ってるセリフとしてたまこが「みんな誰か好きになったのかな」というのですが、みどりちゃんは「たまこには一生無理」と返します。これが中々にたまこの性格を表していてよかったです。
たまこまーけっとの重要なとこはそんなとこでしょうか。

たまこラブストーリー
たまこまーけっとの続編として映画上映されました。私は劇場で見ましたし、その後何度も自宅で見てます。
映画は進路相談のシーンから始まります。大工の娘は将来大工、またまた海外留学したり、東京に映像の勉強に行くんだ、といったり(これはもち蔵です)、その中でたまこだけ将来について悩んでいます。餅屋なのだから餅屋をいつかは継ぐのでしょう。でも、その前に何か社会に出ておきたいのかな。進路が明確に定まってないのはたまこだけで、ここでたまこのモラトリアムが描写されます。
あと上に書いたように尻もちの企画案を考えたりして、これが彼女の一種のあどけなさを表現したりしてます。
映画の目的 たまこまーけっとで明かされていたもち蔵のたまこへの気持が冒頭に説明されていて、これはもち蔵の片思いの話なんだ、というのが最初に観客に伝わります。
リンゴが落ちるシーンがあったでしょう?あれは恋に落ちるのとリンゴが落ちるのをかけてるんですね。
他にもこういった比喩はこの映画で多用されていて、バトンをキャッチできない⇒もち蔵の気持ちをうまく受け止められない
シャーペンの芯が折れた⇒気持ちが折れた などなど
そんな『物語の導入』が上映開始から30分ほど続きます。
30分経過して『事件』が発生するんですが、その事件はまさにもち蔵からたまこへの告白なんですね。たまこはこのとき頭が真っ白になって(なぜなら今まで友達と思ってたのに、関係性が急に変わるから)川べり(京都の鴨川)に鞄を置いて家に帰ってしまいます。一つのことで頭がいっぱいになると他のことに注意がいかない、よくあるあれです。
もち蔵に対する言葉遣いも「かたじけねぇ」だったりといった古臭い言葉を使うようになり、もち蔵への戸惑いの感情を表しているとみることが出来ます。
この時、まだたまこはもち蔵のことが好きではありません。
それはたまこから常盤みどりへの相談シーン(その1)でも顕著に表れていて、このとき確かみどりちゃんは「私にもどうしたらいいかわかんないよ。でも、たまこが困っているのはいやだな」みたいなセリフをたまこに向かって言います。
そんなたまこの心変わりはどこでやってくるかというと、場面にして一瞬のことなんですが、たまこの親父が倒れて救急車で運ばれるんですね。
そのときもち蔵も居合わせて「一緒に同行するご家族は」といったときなぜかもち蔵が手を上げます。二人はあとからタクシーでついてきてよ。
その一瞬にしてたまこはもち蔵に恋に落ちました。(これが読み取れるかどうかが重要なキーな気がする)
どうなったかというと、たまこがもち蔵にたいして気まずくて使ってた古い言葉遣いがそれを期に一切なくなるんですね。そのことからたまこがもち蔵に恋に落ちたことがわかります。
でも、結果を待つ病院のシーン。もち蔵はたまこの変化を気にしていたのか、「あのこと、なかったことにしてくれてもいいんだからな」と言います。今度はたまこが慌てるシーン。どうしたらいいかわかんない、って常盤みどりちゃんに相談するシーン(2回目)がやってきて、これまで一回も紹介してなかったんですが、朝霧 史織ちゃんってキャラがこの時いい味を出してて、「もち蔵が東京に行っちゃって、たまこ、寂しいんだ。もち蔵のこと、好き、なんだ」みたいなセリフを言ってくれます。そうしてたまこは自分の気持に気が付き、物語終盤に向けて今度はたまこが気持を伝える番になりました。
諸々あって(この諸々はぜひ映画を見て欲しいんですが)たまこがもち蔵に自分の気持を伝えることができ、無事物語はハッピーエンドとなりました。

この話を見てぼくはポルノグラフィティの「Century Lovers」という曲を思い出していました。
この歌詞の中にこんなフレーズがあります。
「最初からハッピーエンドの映画なんて
3分あれば終わっちゃうだろ?」
この映画はまさにこのことを体現してる映画だなと思いました。

「回避性愛着障害」岡田尊司


 タイトルに回避性愛着障害とあるが、現在の精神医学ではそういった疾患概念はなく、また、著者自身も回避と回避型愛着スタイルは別物としている。また、似た概念としてASDや回避性パーソナリティ障害などもあるが、それらとも異なる。なんとも障害という表現が語弊がありそうな言葉だが、回避型愛着スタイルの本と割り切ってしまえば読めないもんでもない。回避性愛着障害に関して言えば似たような疾患は「アパシーシンドローム」などと言った名で古くから報告されてるものであり、今更愛着スタイルと結びつけて語る意味はなんだろうか。
 著者によれば子供が回避性愛着障害になる原因の一つしてネグレクト(無視)をあげており、これは映画「誰も知らない」にリアリティを与えている。同作品は育児放棄(ネグレクト)という問題を抱えた当事者たちの物語だからだ。

小さな王子の初めて知ってしまった感情

リコリス・リコイルは見てますか
私は2000年代オタクが話題にしてるのを見て、こりゃ見なきゃあかんなぁと思ったので見てます
そのED曲がこれ
https://open.spotify.com/track/1yt4wO7dKCwsfjch8SN9aU?si=13be1959b4164897
歌い手は歌の中でこんなことを言ってます。

初めての感情知ってしまった


では歌い手が知ってしまった初めての感情とはいったい何なのでしょう
もうすこし歌詞を追いかけてみます
そうするとこんなことを歌ってますね

君の手を握ってしまったら
孤独を知らないこの街には
もう二度と帰ってくることは
できないのでしょう


だから、知ってしまった初めての感情は「孤独」では?と推測できます
もう少し進めてみましょう

君が手を差し伸べた
光で影が生まれる


ここでいう光とは、人様の温もり
影とは孤独のことを指してるのではないでしょうか
人によって感じ方は色々あっても、そんな解釈が一つくらいあってもいいのでは、と思います

小さな王子を読みました
あまりに有名な作品なのでネタバレしてもいいでしょう
好きな人はこの先読むのはあまりお勧めしません
さて、この作品の時系列を追ってみます
①小さな王子が小惑星で産まれる
②その小惑星にバラの花が咲く
③バラの花に愛想をつかした王子さまは星を出ていくことを決める
④惑星を巡りながら王子さまは色々な人に出会う
⑤地理学者に出会った王子さまは地球に降り立つ
⑥王子さまが降り立った先は砂漠だった。そこで王子さまは一匹のきつねに出会う
⑦きつねに「絆」について教えられる王子さま 王子さまにとって星に咲いた一輪のバラはかけがえのないものだ、ということを認識する
⑧やがて王子さまは主人公であるパイロットに出会う そこで狐の話とか、星々で出会った人の話なんかをパイロットに聞かせる
⑨最後に王子さまは毒蛇に身をかませ、身体を置いて星に帰ってしまう

人生の中で何度読み返したかわかりません
自分の中で大切なものが失われそうなとき、失われたとき、よく読み返してました
とっても大切な作品です

そしてあることに気が付きました
王子さまが最後に死んでしまうのは、バラが初恋の相手だったからでは?
初恋はいつだって特別なもの
傷ついたことを知らない心が惹かれ合うってなんだか素敵じゃないですか
王子さまはバラに初恋をしてたんだと思います
そう思って読み進めてみました

「お花のいうことなんか、聞いちゃだめだったんだ」ある日王子は、ぼくにうちあけた。「お花のいうことなんか、聞いちゃだめなんだよ お花はながめるもの、香りをたのしむものなんだ。ぼくのお花は星をいい香りにしてくれたけど、でもぼくはたのしい気持ちになれなかったんだよ。あのトラの爪の話だって、ぼく、あんなにいらいらしちゃったけど、ほんとうはもっと同情してあげればよかったんだ……」(野崎歓訳)


如何ですか
ぼくにはなんだか絆に縛られてるように見えます
でも王子はバラのことが好きだった

この王子が知ってしまった感情も、また孤独
そんな解釈はどことなく残酷でしょうか

映画「誰も知らない」に見る大人しさの生存戦略

今日は映画の話です
それもやや古い映画
当時カンヌ国際映画祭で、史上最年少および日本人として初めての最優秀主演男優賞を獲得したことで話題になりました
その映画の名前を「誰も知らない」(英語でNobody knows)といいます。
この映画、1988年に発生した巣鴨子供置き去り事件という実話を元にしてるんですよね
(最初見た時はやや倫理観に欠ける映画だなと思いましたが、実話を元にしてるということで納得しました)
映画を二度見てWikipedia記事を見て知りました
登場人物は母子家庭の母親一人に子どもが4人
何れも父親が違います
捨てられたのか捨てたのか、そこらへんの経緯は明らかにされてないですが、映画では何人かの子供らの父親が出てきます
母親は途中恋人をつくって疾走
たまに現金書留で生活費が送られてくるも、それも途中で途絶えてしまう
この映画の特徴はその事件性にあるというよりは、子供たちにあるんではないかという気がしました
Wikipedia記事でも触れられてますが、泣くシーンがない
普通子供が親に見捨てられたなんて状況が起きたら、子供は怒ったり不安がったり泣いたりするもんなんじゃないでしょうか
それが一切ない
あと見てる間一切のBGMを受け付けないといいますか、作品中もエンドロール以外はBGMは一度しか流れてきません
それほどの緊迫状態と静寂に包まれた映画になっています

心理学では回避性愛着スタイルなんてものがあります
子どもが親からの十分な愛情を受けられずに育つと、誰にでも馴れ馴れしい子供になるか(脱抑制性愛着障害)、何事にも無関心になるか(反応性愛着障害)、するんですが、私はこの映画に出てくる子供たちは後者なんだと思いました
反応が薄いからといって何も感じてないかというとそれは違って、内面世界は激しい嵐が吹き荒れてるんだと思います
ただ、彼らの生存戦略として大人しくしてた方が結果よくなるからって、そいういうスタイルが身についたんだと思うんですよね

これは自分自身のこと投影してる可能性が0とは言えないので難しいところなんですが、内面の嵐の象徴として映画の途中で長男がやたら当たり散らかすシーンが出て来たり、母親にプチ文句を言ってたりするんですよね
大人しいからといって何も感じてないわけではない、これは強く思います

ネタバレを極力回避して語れるのはここまでです
あとはとにかく本編を見てほしい
誰にでも勧められた作品とは言えませんが、刺さる人には刺さる作品に仕上がってるんじゃないかと思います
アマゾンプライムでレンタルで(やや画質が悪いですが)見れますし

今日は映画の話でした
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